2015年5月24日日曜日

平成27年度第2回サポーター講座 テーマ「コラージュについて」


平成27年5月24日(日)10時から
会場:スタジオ
講師 林課長補佐(教育普及担当)受講者14人
テーマ「コラージュについて」

第2回目のサポーター講座は林先生の作品を参考にコラージュ作品を仕上げました。

林先生の作品は貼り付けた紙に古色を出すためにコーヒーをかけたり、墨を薄く塗ったりしてあります。また、ボールペンで描画してあります。その手法を参考に制作しました。

まず各自の選んだ大きさの段ボール片をベースに新聞や様々な紙を自由に貼りました。その上にコーヒーを流したり、墨を塗ったりして仕上げました。




独自の感性や工夫で制作が進み、あっという間の2時間でした。



独自の感性や工夫で制作が進み、あっという間の2時間でした。

2015年5月5日火曜日

ワークショップ「メロディを描こう」


 5月2日(土)
音楽を聴いて、その曲のイメージを色や形に表すワークショップを行いました。

まず所蔵品展で、音楽を油絵で表現されたキシオ・ムラタ作品を鑑賞しました。
次に、講堂で曲を聴き、その曲に合わせて鉛筆を持って指揮をして、紙に線を描きました。子どもたちが、生き生きと体を動かす姿が印象的でした。


その線をもとにして、染めた和紙・布・色紙・綿等を使って画面構成し、作品を制作しました。
自分が曲から感じたイメージを大切に制作し、メロディが素敵な絵になりました。
〈T.K〉

2015年5月4日月曜日

物思う「春」―川﨑小虎《春》


  新年度がはじまりましたね! 岐阜県美術館の展示室も季節にあわせて模様替え。新しい所蔵品展示では、414日から洋画・西洋画がスタートしました。一日遅れで始まった日本画室の展示は、川﨑小虎(かわさき しょうこ)が描いた金屏風、《春》(寄託作品)からはじまります。平安朝の姫君が、はらはらと落ちた桜の花びらを見ながら、移りゆく季節に心を寄せている情景です。若い女性と華やかな花の組み合わせは確かに美しいのですが、桜の花が咲いたと思ったらあっという間に散っていくように、人の若さや美しさも一時の事。美女も花も「はかなさ」の象徴とみなすこともできますね。

 作者の小虎は岐阜市に生まれ育ちました。父が岐阜県庁の山林課に勤務していたからだそうです。本名は中野隆一といいました。川﨑は彼の母の実家の姓です。川﨑家は名古屋にあり、伝統的な「やまと絵」の絵師の家系でした。小虎も後継者として期待され、祖父の川﨑千虎(かわさき ちとら)から絵の指導を受けて、岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)から東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学します。

 美術学校の同期は、日本画では蔦屋龍岬(つたや りゅうこう)、吉田秋光(よしだ しゅうこう)など、洋画では岡本一平(おかもと いっぺい。漫画家として活躍。妻は作家の岡本かの子、長男はあまりにも有名な芸術家、岡本太郎)、藤田嗣治(ふじた つぐはる。エコール・ド・パリの寵児として世界的に活躍しました。ちなみに今年の9月、当館で「小さな藤田嗣治展」が開催されます。乞うご期待!!)、近藤浩一路(こんどう こういちろう。のちに日本画に転向、水墨画の名手として知られます)、小絲源太郎(こいと げんたろう)、石井鶴三(いしい かくぞう)などそうそうたるメンバーでした。最初に学ぶ予科では、日本画・洋画・彫刻、すべて一つの教室で賑やかだったそうです。

 美術学校の日本画科を卒業後、小虎は、小学校の教師として児童の指導をしながら、小絲源太郎ら母校の卒業生とともに、研究団体「行樹社」(こうじゅしゃ)を結成します。行樹社は「日本画と洋画の障壁撤廃による絵画の革命」を旗印としました。出品作のタイトルを見ると、水島爾保布(みずしま におう)の作品では《凝視》《蛇の腕輪》《夜の異性》《地獄太夫》《蛇ぜめ》など、小泉勝爾(こいずみ かつじ)の作品では《山の女》《沼の花》《夜の噴火》など、小虎の作品では、当館所蔵品の《うどんげの花を植える女》(写真の一番左側の作品です。真ん中の《夜の蔵》も何回目の展覧会かは定かではありませんが、行樹社展出品作だとご遺族から伝わっています)をはじめ、《呪はれたる家》《童謡》《白き卓布と果実》《バイブル》(←脱線しますが、この作品、当館所蔵の《聖書を持つ少女》と関連がありそうです…が、決め手が無い。求む情報!)などがあり、これらの画題だけでも、当時の文学や演劇から色濃く影響を受けた、ロマンティックで、かつ大正期特有の退廃的な雰囲気を湛えた、新奇な作品が多かったことが想像できるでしょう。

 しかし、彼らの試みた前衛的な新しい日本画は、国の主催する文部省美術展覧会(文展)では評価されませんでした。小虎は、学校を卒業する頃から文展に作品を出してはいましたが、「しかしいつもはねられた。毎年出して六、七回落選した」(川﨑小虎『絵と随想 森の梟』明治書房、1973年)という状態でした。

 行樹社は4回ほどの展覧会を重ねたあと、自然消滅します。それと前後して小虎は小学校を辞めされられました。「なぜやめさせられたのか、私が熱心な教員でなかったせいもあろう。多分児童と遊び乍ら自づと美的観念を植え付けようとする自分流の教育法が校長の気に入らなかったのだろう。」(前掲書)と小虎は推測しています。

 その後小虎は、画会を開いて自作を販売するなど苦労を重ねながら、祖父譲りの伝統的な「やまと絵」のスタイルを取り入れ、しかしロマンティックな文学性は以前と変わらず継続させた、新しい様式を創造し、それによって文展に受け入れられていきます。初めての文展入選は大正3年、小虎は28歳になっていました。《春》は、まさにそうした、大正期の新たなスタイルで表現された作品なのです。

 


今年の春は駆け足で過ぎ去るかのようで、木々の緑も、もう、初夏の色に変わってきましたね。移ろう季節。花も女性の美しさも永遠のものではない。若き頃の情熱も、いつかほろ苦い思い出にかわっていく。ただ絵の中にだけ、いつまでもその美しさが美しいままに、閉じ込められている。

《春》を展示するたびに、当時の小虎の心に思いをはせて、筆者も「物思う春」となるのでした。(青山)